JRの脱線事故に関して想うこと

とりあえず、上のたわごとは何を言ってるのか自分でもわからんのですが、ひとつちょっと真剣なことを書きたいと思います。本当は日曜日に書こうと思ってたんだけど、文章がまとまらなくて遅くなってしまいました。そんで、昨日、「交渉人 真下正義」の映画を見て、さらに考えることがあったので、今日ここに書いておこうと思います。


JR福知山線脱線事故のニュースで、先週の日曜日*1、テレビからaikoの曲が聞こえてきました。事故に遭った女の子の告別式でした。おいらは、この時なんだか切ない気分になってしまいました。そして、つい最近更新されたFM大阪aikoのメッセージにそのことが書いてあったんです。きっと、aikoも同じ番組を見たのでしょう。
aikoが好きなおいらでさえ切ない気分になったのだから、aikoはどれだけ悲しい気持ちになったのでしょうか。


あと、例えば映画なんかで大勢の人が死んでしまうシーンがあったりするけど、私はそういう映画って好きじゃありません。もし、実際にそんなことが起きたときは被害にあった本人や身近なひとだけじゃなくて、本当にたくさんの人が悲しい気持ちになるんじゃないかって考えてしまうからです。もちろん、わりきって楽しむ人を非難するつもりはありません。でも、あまりにも安易な設定は考え物だと思います。


以下、映画「交渉人 真下正義」に関する若干のネタばれを含むので、見たい人だけ続きをどうぞ。


今回の鉄道事故は、JR西日本の体質が引き起こした問題ではないかといわれています。もちろん、人間は誰でも間違うことがあると思います。そのために機械で制御するシステムが存在するのでしょう。しかし、映画の設定のような完全な機械制御というのもまた、いざというときに対応できないのではないかと思います。映画の中で、クモ*2に追われることになった電車の運転士が、線引き屋*3に「命、預けました」(微妙に言い回しが違うかも)っていうシーンがあるんだけど、運転士って本当は乗客の命を預かっているはずなんだよね。だからといって、映画のように完全にシステムに依存するというのも、緊急の事態に対しては対応できないような気がします。


今回の場合、乗客の安全よりも利益を優先していたJR西日本の体質に本質的な原因がある気がします。だからといって、(映画のように)装置の設置を義務づけるだけという感じの国土交通省の対策も何か違う気がします。電車の安全は運転士が責任を負うものだとしても、JRはそれをバックアップする体制(設備だけじゃなくて考え方とか体質とか)が必要だったような気がします。JR西日本の信頼回復には、ダイヤ優先ではなく安全第一の姿勢で臨むことが大前提になると思います。



最後があまりにもあたりまえのことになってしまうのですが、これに尽きるのではないでしょうか。

*1:5月1日

*2:クモE4-600

*3:事故発生などの緊急時に臨時のダイヤグラム(列車運行図表)を書き上げる人の俗称